昭和54年09月29日 教祖生誕祭



 皆さんこんにちは。おめでとうございます。今朝から朝の御祈念の後に、ここの今日の色々御用をしております先生が向こうの御結界に出て参りましてから、今日後で福引きをさしてもらう準備をさしてもらう準備ができましたけれども、あぁその中に一点、親先生何か、色紙にお書き下げを頂いて、一点だけ景品換わりにさして頂きたいと思いますから、何か一言書いて下さいと言うてまいりました。
 それで私何と書かせて頂こうと思うて、神様にお願いをさして頂きましたら、ひらがなで「よろこびのみち」と頂きました。これはひらがなでという事は、見易うと言う事だろうと思う。見易い見易い喜びの道。お道の信心は喜びの道なのです。教祖様ご自身が喜びに喜び、勇んで開けた道と教えられます。または「喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせん」とも教えておられます。
 これはお産をする時に喜びと申します。その時にあった御教えだと言う事でございますけれども、矢張り喜びが喜びに通じます。確かに「此方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん」ね。という御教えがあるくらいです。喜びに喜びで開けた道。しかもその、喜びというのは、言うならば極楽の道ではなくて、合楽の道なのです。よく温泉やらに参りますと、もう本当に今度は極楽してきたと申します。
 お金に恵まれそして、子供さん達に恵まれておる人、もう本当あっちこそ極楽だろうとこう申します。所が成程温泉にひたって、極楽でしょうけれども、そういう極楽ではすぐまた元に戻ると言うか、そういう極楽の道というのは、極楽の喜びというのは、消えてなくなる。そこで合楽の道合楽、私が最近申しております、合楽と言う事は、ね、神様と氏子とが合楽し合う、喜び合うそこから生み成されてくるもの。
 それにはどうでも私共が、良いお導きを頂かなければならない。そして信心の有り難いおかげを頂いて、勿体無い。そして心にそれこそ喜びの花が咲いたのであろうかと思われる様に、心が喜びで満たされてくる。そういう喜びを常に持ち続ける。そしてその常に持ち続ける喜びを、ね、神様に通わせる。世の為人の為、そして又は神様が喜んで下さる事の為に、その常に持ち続けられる喜びが成就される時に、その喜びが神様のお心と通う。そこから合楽の道が開けてくる。
 合楽し合うそこから生み成されてくるおかげは限りがない。無尽蔵である。ね。その、無尽蔵、限りなく沸いてくる喜びでなからなければ、本当の喜びとは言えません。だから極楽の言うならば、はぁあっちは極楽じゃろうと言うた、はぁ今度は極楽してきたというその極楽はすぐに消えてしまう。ですけれどもその合楽し合うてから、合楽から生まれてくるところの喜びというものは、消える事がない。しかもそれには、ね、限りのない喜びに、限りのない人間の幸せの条件が足ろうてくるだけではない。
 その喜びならばあの世にまでも持って行け、「行く先は地獄の果てかは知らねども、喜びだけは持っていきたい」。これはもう数年前に私が神様に頂いたお歌です。「行く先は、地獄の果てかは知らねども、喜びだけは持って行きたい」、ね。と言う事は例えば人から見たら本当に地獄の様な風に見えても、中に住んでおるその人は、有り難い神様神愛有り難しとしてお礼を言える様な心の状態が開けてくる。
 だから喜びだけは持っていきたいというのは、言うならば合楽し合うて生まれてくるところの喜びであり、おかげであると言う事になります。自分が喜びたいと思うても、ね、もう喜ぶ、本当に喜ばんならん事が分かっておっても、中々喜べない。返って腹が立つと言う事がある。これは自分が喜ぼうとしたのでは、喜べません。喜びというのは確かに、神様が与えて下さる、神様から許されるものであります。そういう喜びを目指して行くと言う所に信心があり、信心の喜びがあります。
 もう数十年も前でしたけれども、まだ椛目におります時分に、馬渡りの今信徒会長をしております、秋永友良先生ん所のお家にお話に参りました。そして一晩中お話して明くる朝帰らして頂いて、あの川崎から博多の方へ帰るんですけれども、丁度バスを待ち合わせておりましたら、2・3人の方達がぞろぞろ入ってみえた。もう70以上にもなるお婆さんが、何か風呂敷に少しばかりと、何かほうれん草の様な物を、こう少しけどったものを下げて、まあ娘さんであり孫さんであるという。
 歩きに見えておったのを、送りにみえておるところであった。丁度その日は丁度あの馬渡り地区では、敬親敬親会がありました、敬老会があっておったらしい。今日はあんた婆しゃんあんたは、敬老会じゃったろうがっち。もうあんた送って来るってあそこで言わんとね、あちらに行きゃよかったとに。はあもう私はもうあげな、ほんな子供どんが、踊ったり歌うたりするとを、見たり聞いたっていっちょんおもしろなかっち。ほう変わったお婆さんだなあと、思ったんで聞きよりました。
 そしたら懐から何かこう(がっせ?)の様なもんを出されまして、中から紙に幾重にも幾重にも包んで、それがお金なんです。小金なんです。まあお婆さんが貯められたんでしょう、それでその孫娘さんだろうと思われる人に、んーこれちっとばっかあんた小遣いばやろうっち言ってから、やりよんなさってました。そしたら孫さんが見てから、こげな金ば今時あんた、(使う言うていきましょうもとのようには、あんたがちゃんとふつうちかないないとかんのちて、そうやって懐の中に戻さしゃった?)。
 (笑い)折角今日、やろうと思いよる所に(笑い)。ちゅうてでからまた次持って来とるほうれん草がこん位ばっかり、一把(いちわ)持って来とんなさいました。こらあんたげん所と隣と半分ずつしてくれんのち言いよんなさいました。そげなもんはいらんと、もう隣にやったって喜びはせんがのっち。そんならやらん方がええっち、とうとうそのお婆さんが腹かきなさった。事を私はもう数十年になりますけれども、この頃の事の様にこう繊密に思い、今日は起こさせて頂いた。
 喜びたい。孫娘に小遣いの少しもやって(笑い)喜びたい。ね。人間というものはそうでしょうが人に物を与える。人が喜ぶその喜びがこちらに帰ってくる。はぁ良かこつをしたと言うて自分も嬉しい。喜ぼうと思うてした事が反って腹立たしい事になってしまう。結局喜びというものは自分が喜ぼうとして、喜べるものではない。いやそりゃ喜べるかもしれませんけれども、それはどこまでも極楽の喜びであると言う事でございます。ね。神様に許されての喜びそういう喜び。
 今日神様がひらがなで見易う見易う、「よろこびのみち」と教えて下さったのは、今合楽で合楽理念と言う事が、まぁ大きく言うと宗教界に話題になっております。教団でもそれを段々、金光教の中でも段々分かるようになってきた。先日から私が書いた物やら話した物が、お道のとにかく総スカンをくっておりますもんね。合楽はなかなか評判が悪いです。所が最近ではその、合楽から出ておるあの教典感話。
 こっから出ておるご本をいわゆる先生方の卵を育てる所がございます学院で、それを使う事になったいう通知が、先日からまいりました。ね。そして例えば、私の言うておる事が、黒板に大きゅう書いてある。合楽の大坪総一郎師が言うておられる事は、ね、天地の大真理を喝破されたお話だと書いてあったと言うて、ここから行っております学院生から嬉しい手紙が参りました。
 確かにね言うならば今までの宗教は極楽までの道を、しか説かなかった。と私は言っておるわけです。それはどういうわけかと言うて、まあ色々質問を受ける事がございますけれども、お話をいたしますと、なるほどお道の信心は宗教以前の宗教だと。因縁で悩んでおる、罪のために苦しんでおる。キリスト教風に言うなら、いつも十字架を背負うた、難儀を持っておるけれども、今、合楽で話されておるところの信心を頂きますと、その十字架は、もう瞬く間に十の字になると言うのです。プラスになると言うのです。
 どんなに私は因縁の為に、もうよっぽど因縁が、悪い因縁であっただろうと苦しんでおる人達が、ね、合楽で説かれておる話を頂きますと、ね、本当にその事に対して、お礼が言えれる様な心の状態、いわゆる喜びが沸いてくる。その喜びにまた限りないおかげが頂けれると言うのでございます。先日からうん福岡から、毎日参ってまいります若い婦人の方があります。子供さんがもう医師現代の医学では、どうにもできないという病気なんですから、まあ母親としては何とかして。
 まあおかげを頂きたいというのが、まあお参りを始められて、まあ何ヶ月か参っておりますけれども。とにかく難儀が難儀、その重なっておるという感じです。ご主人がお酒を飲まれる、姑親になられる方が、非常に冷たい。というまぁそれで先生本当に折角信心の道にこうやって入らして頂いたのですから、ね、本当に喜びたいと思いますけれども、家に帰ると心がもう真っ暗になります。
 こんな事ではと思いますけれども、と言うて参ってくる度に、昨日一日に不愉快であったり悲しかったりするその思いをお届けされますから、私は4・5日前に、ね、もう随分、おはなしもいただかれたのですから、私はねあのここにはね言うなら、銀行に金を借りに来る様なとこではないぞ、ここに銀行に金を預けに来るような気持ちでお参りして来なければいけないぞと。
 今日今日只今からその、帰りがけにあれもおかげこれもおかげと言う事を全部、ね、あなた自身が健康であるし、それが食べるに事欠くと言う事ではないし、ね、とにかく喜ばしい事、お礼を申し上げなければならない事は一杯あるんだと。その事をねひとつ思うてみて、明日参って来る時には、ね、どう言う事を一番先にお礼を申し上げようかという様な気持ちでまぁおかげを頂きなさいと言うて、少し私が険しゅう申しました。
 ところが帰ってからその子供さんが熱発、2日位お参りがありませんでした。はぁ私が少しひどう言うたから、腹立てとるとじゃろうかと私は思いました。そしたら3日目参ってみえて、いつもと顔色が違いますもん。して子供ば連れて来とらん。ニコニコとしてからもう、親先生おかげ頂きましたと、と言うてそのまぁそれこそ、まぁ祝いの日にあれもおかげこれもおかげと言う事を思うて、そのおかげの事のお礼のお届けがあって、ここに高松という先生がおる先生に、そちらでお話をした。
 もうこんなに変われば変わられるもんだろうか。自分の心がねもうとにかく明るくなった。私はもうどんなに思うても、家のお婆ちゃんにだけは、その不自由な子供をいつも抱いておるんですけれどもその子供を、ね、お婆ちゃんに預けたり見てもらうと言う事が嫌い。お婆ちゃんもそうだろうけれども、私は家のお婆ちゃんの顔を見ると、ご飯がいけんぐらいにある。(笑い)家のお婆ちゃんの顔を見ると、もう好かんとこう言う。所がこの二日間親先生が、あれもおかげこれもおかげ。
 とにかくおかげを頂いておる事が一杯だよと言われてみると。もう自分の周囲にはお礼を申し上げなんならん事がいっぱいだった事に気付かせて頂いて、お礼を申させて頂いておりましたら、不思議な不思議な心が起こってきた。そのお婆ちゃんに優しくしたいという心が起こってきた。こちらにお参りをさして頂くのに、お婆ちゃんすいません、合楽にお参りするけん、子供ちょっと預かっとって下さいちゅうたら。
 はぁ良かどころじゃないっちゅうてから、今までかつて見た事もないような笑顔でお婆ちゃんがその孫を受け取られた。ね。そして早よ参って来なさいと言われたと言うて、喜んでその高松和子先生に、話されたと言う事を、そのあとに聞かしてもろうて、ね、人間の心というものはおかげを頂くと、今まで真っ暗であった心が明るうなった。今まではあれはもう、それこそ面見るとも好かんというお婆ちゃんに優しゅうせずにはおれない心が生まれてきた。
 今まで自分の子供を、その婆あちゃんに抱かせごつもなかった、そのお婆ちゃんに、合楽にお参りするから子供をお願いしますと言うて、言うたら、お婆ちゃんもふたつ返事で、今までかつて見た事もない様な笑顔で、はぁ早よ参って来んのっちゅうて言われたという事でございました。人間の心というものはね、本当にころころと実は変わるというこの語源が、心と言うんだそうですけれども、ね、信心しておかげを受けると言う事は、「心ひとつですべてを創る」という事です。
 その心がねぎこちない堅くない、心が和らいでくる。そしてどこから湧いてくるか分からん喜びが湧いてくる。ね。今朝からもその喜びについて、皆さんに聞いて頂いたんですけれども、もうそれこそ有難うして有難うして、もう横で見とったら、どこから何をされたじゃろうかという位に、まぁありがた涙がこぼれるという方の、昨日聞かしてもらった話をさして頂いたことですけれども、そういう喜びに浸る。ね。それをまあ言うならば極楽と言うのじゃないでしょうか。ね。
 そしてその喜びの心で、今度は自分だけではない人も喜び、世の中が明るくなる様な、言うなら神様が喜んで下さる様な心の使い方ができ、御用ができ奉仕が出来る様にならせて頂く時に、そこには言うなら合楽世界が開かれるのです。ね、私共はその合楽世界に住みたい。それこそ、ね、行く先が分かりません、地獄の果てかは分かりませんけれども、喜びだけは持っていきたいという喜びが、そういう喜びでなからなければ、地獄で喜べると言う事はありません。ね。
 どういう中にあっても降れば降るで、照れば照るで有り難いと御礼の言えれる心。そういう心に限りない喜びのおかげの道が開けてくる。ね、今日頂きましたあの色紙に「よろこびのみち」と頂いたが、皆一口でしたけれどもお話を聞いて頂いた。そういう喜びの道、それは自分が喜ぼうとして喜べるのではないのだけれども、喜ぶ手立て喜ぶ道というものを分からして頂いたら、自ずとその喜びが身に付いてくる。
 そういう生涯でありたい。しかもそういう喜びならば、あの世までも持っていけ、この世にも残しておけると言われるのでございますから、そういう尊い教えを残しておって下さった、天地金乃神様が「此方金光大神あって、神が世に出たのである。氏子からも神からも、両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言うことに背かぬように、よく守って信心せよ」という風に教えておられますけれども、ね、金光大神の教えられた事を、それこそやろうと思えば子供でもできるように見易い。
 火の行をしなけばならない、水の行をしなければならない。ね、と言う様なものではなくて、成そうと思えば人間なら誰でも成せれるような、見易い喜びの道を説き教えておられる。それを合楽ではまた、ね、愈々合楽理念と言っております、合楽理念は助かりの理念。ね、そこにはねもう本当に、自分が喜べるだけではない自他共に喜べれる道。例えば言葉が分からなくても。助かる事のできれる道。色は違うてもやはり通ずる道。そういう道が開けてくるのです。ね。
 喜びの道というのは、(まもあたりざん?)としとって、今からなん稽古する事じゃありません。もう年寄りであろうが、ね、若い者であろうが、本気でその気になってその道を習う所に、それを実験するところに必ず喜びの実証がある。合楽理念の実験そして、実証さして頂く。そしてこういう喜びの道には、こういうおかげも伴うてくるという証を立てさせて頂きながらの、生涯でありたい。もうこれでなからなければ、あの世には持ってはいかれません。
 どんなに億万の金を持っておっても、それはお棺の中に持っていくというわけにはまいりませんけれども、ね、この喜びだけは持っていけれる。しかもそれは子孫にも残しておけれると言われる程しのものですから、それをご信仰で言うと、御神徳という風に申します。「神徳はあの世にも持っていけ、この世にも残しておけれる」その喜びの塊の様なものを頂いて、合楽世界に住まわせて頂きたい。言うならば、神も喜び氏子も喜び合えれる、そして金光大神も喜んで下さる。もちろん自分も喜べれる。
 そういう道がもしあるなら、これはひとつ習わしてもらわにゃいけん、体得さしてもらわにゃいけんという風に思います。私の心の中に咲く花は、私の中の心の喜びは、もうそれこそ天地の親神様より他に知る人はなかろうと思うんですけれども、この喜びを何とかして、皆さんにも聞いてもらいたい、分かちたいといつも私は思うんだけれども、親先生言いよりなさるとはほんなこつじゃろうかと、疑うて聞いたらそれまでの話。そして、私が実証して、ね、実験し実証して言うならば。
 もうこれは百年も前の話という事ではなくて、いや私が日々現しておる所の喜びを皆さんに聞いてもらう。ほんと喜びとは見易い事だなあと、ね。福岡のその区員の方が2日間考えた。本当にこげんごと悲しい事ばかりを親先生にお届けしよったら、親先生がその事の他の事を見てご覧、みんなおかげ頂いとるじゃないのと言われたら、あれもお礼を申し上げなければならない、これも矢張りお礼を申し上げねばならない事が気付いてきた。不思議に自分の心が、暗い心が明るくなったというか。
 今まで面も見たごつなかったお母さんに優しゅうごとなってきた、もうとにかく子供は、とても抱いてでんもらうごとなかったのに、お母さん暫くお参りしてくる間預かっとって下さい言うたら、もうそれこそお母さんがそれを待ち望んでござったごと、もうそれこそ二つ返事で、はいほんなら早よ参ってこんね、と言うてまぁ初めて親子の間に、そういう喜びの交流ができたと言う様にです。
 本当にです気が付かしてもらい、実験さしてもらい、実証さして頂いていくのですから、信心の喜びを積んでいくと言う事は、実に楽しい事である、愉快な事であります。天地の調子、リズムにのっての日々の信心生活。そういう生活を皆さんにも分かって頂きたい。もうこの年になってからと言わずに、本気で実行する気になってごらんなさい、もう瞬く間に自分の心の中に喜びがいっぱい広がってまいります。
 ただのはぁ温泉なら温泉で極楽したと、極楽してきたと、もう家には金もありゃ物もあるけんでと。自分は極楽の中におる様だけれども、その極楽の中では喜べたり喜べなかったりであります。合楽世界に住まにゃいけません。神様と氏子とが仲良うする信心、合楽し合える信心。そっから生まれてくる喜び、そっから生まれてくる限りないおかげの世界に住まわして頂きたいと思います。どうぞ。
 今日は只今からいつものことでございますけれども、もう去年のあのとおりではいけなかったから、もうとにかく思いを込めさしてもろうてと、まあ今朝からは皆さんに聞いて頂いたんですけれども、まあま、行き届きません不行き届きな事で御座いますけれども、まあ今日なりに一生懸命の思いで、皆さんが奉仕しておりますのでそれを請うて頂いて、まあお喜びいただきたいと思うんですけれどもね、うんこれは喜ぼうとしてこんこげなもんと言うて、いうふうに思われるかも分かりませんけれども、ね。
 ここにあるひとつのまあ目には見えない真心、そういうものを自分の真心で受け止めさして頂いてせめて、今日一日本当の極楽じゃない、本当の合楽世界とはこういうもんだろうかと言う様な、味わいを味おうて頂いて、それが教祖金光大神様の第一の、私はお礼になるというふうに思うております。どうぞ神様へのお礼天地へのお礼のつもりで、ひとつお過ごし頂きたいと思います。
   どうぞ、よろしゅう。